ニャーヌッタラ大長老の説法
08

在家仏教徒の理想的な生き方

2012(平成24)年10月21日
アジア仏教友好協会主催「アジア仏教の集い」
於 新横浜観音寺

今年もアジア仏教友好協会代表のデレアヌ・フロリン先生からお招きいただき、又、観音寺のご住職柳下先生、そして支えてくださる周りの方々に、心から感謝申し上げます。

さて、今回の説法のテーマとして「在家仏教徒の理想的な生き方」という、とても大切なテーマをいただきました。

人間として生まれたなら、自分の善い心を育てて、智慧を育てて、積むべき功徳を積んで生きることは“在家仏教徒の理想的な生き方”です。
理想的な生き方ができれば、生きているときもいい。死んだ後もいい。安心しています。
それでは、理想的な生き方について在家の仏教徒は、どのように生活の中で実践しますか?

五つの限りない徳と恩

まずはじめに、在家仏教徒であれば忘れるべきではない“5つの限りない徳と恩”があります。その5つを忘れないで生活することが大切なことです。そのとき、善い心が生じて、功徳も得ます。智慧も顕れます。日常生活もより善くなります。

それでは、忘れるべきではない“5つの限りない徳と恩”とは、何でしょうか?

  1. 仏法僧の中で、仏という、お釈迦さまの徳と恩を忘れないでください。
  2. 法という、お釈迦さまの教えの徳と恩を忘れないでください。
  3. 僧という、お釈迦さまの弟子・比丘サンガ・お坊さんたちの徳と恩を忘れないでください。
  4. お父さんとお母さんの徳と恩を忘れないでください。
  5. 正しいことを教え戒める先生の徳と恩を忘れないでください。

このように仏教徒とは、“5つの限りない徳と恩”を忘れないで、毎日やるべき仕事をして、ボランティアや布施などの積むべき功徳を積んで生活してください。そのとき、何の問題もなく、心身ともに元気で、幸せな生活を送ることができます。

カルマ

次に在家の仏教徒とは、“カルマ”という業《ごう》を信じることも大切なことです。
そのカルマとは、自分の体の行為、口の行為、心の行為の善い行為は、善い結果をもたらす。悪い行為は悪い結果をもたらすという善因善果、悪因悪果の法則を正しく理解する智慧のことです。この智慧を備えた人は、カルマという自分の行為とその結果だけが今世から来世へと続く自分の真の財産であると観ます。

つまり自分の人生は、自分の体の行為、口の行為、心の行為で行った原因と結果通りに流れて生きています。だれの責任でもありません。すべては自己責任なのです。
このように、在家仏教徒とは、5つの限りない徳と恩を忘れないで、カルマという業を信じて、毎日やるべき仕事をして、体の行為、口の行為、心の行為をよく守って生活してください。そのとき、何の問題もなく、心身ともに元気で、幸せな生活を送ることができます。
これが、在家仏教徒の理想的な生き方です。

体の行為、口の行為、心の行為

それでは、在家仏教徒の理想的な生き方をするために、どのように自分の“体の行為”、“口の行為”、“心の行為”を実践しますか?

自分の“体の行為”、“口の行為”、“心の行為”が淨《きよ》らかになるためには、三帰依と、五戒、八戒を守ってください。そして、みなさんが実践している三帰依と十善戒もできるだけ守ってください。五戒や十善戒は、人間の道徳であるので、実践するべきことです。(十善戒・・・不殺生《ふせっしょう》、不偸盗《ふちゅうとう》、不邪淫《ふじゃいん》、不妄語《ふもうご》、不綺語《ふきご》、不悪口《ふあっく》、不両舌《ふりょうぜつ》、不慳貪《ふけんどん》、不瞋恚《ふしんに》、不邪見《ふじゃけん》)
三帰依とは、皆さんも、よく、ご存知のように、帰依仏、帰依法、帰依僧の仏法僧のことをいいます。

●帰依仏とは、お釈迦さまを拠り所として、私は帰依致します。
お釈迦さまの説かれた言葉は、Buddhan saranan gachami.《ブッダン サラナン ガッチャーミ》

帰依法とは、お釈迦さまの教えを拠り所として、私は帰依致します。
お釈迦さまの説かれた言葉は、Dhamman saranan gachami.《ダンマン サラナン ガッチャーミ》

帰依僧とは、お釈迦さまの弟子比丘サンガを拠り所として、私は帰依致します。
お釈迦さまの説かれた言葉は、Sanghan saranan gachami.《サンガン サラナン ガッチャーミ》

このように、三帰依を信じて、五戒、八戒、十善戒を守る人は、理想的な在家の仏教徒です。
五戒、十善戒について、さきほど、みなさんは唱えました。
また、自分の“心の行為”が、さらに、淨らかになるために、できれば、瞑想をしてください。瞑想のやり方にも、いろいろありますが、

自分の心が散乱しないで、落ち着くように、呼吸の瞑想を練習してください。

または、自分も幸せ、皆さんも幸せになりますように、怒りが出ないように怒りを消して、慈しみの心が出るように慈悲の瞑想を実践してください。そして慈悲喜捨の心を育てください。

慈悲喜捨の中の、
“慈”とは、すべての生命に対して安楽を望む、すべての生きとし生けるものの幸せを願う心です。
“悲”とは、思いやりの心で、苦しんでいる生命を助けてあげたい、その苦しみから解放させてあげたいと願う心です。
“喜”とは、喜びの心です。周りの人々の幸福や、人生が栄えることを妬まないで、共に喜びの心がでるように、喜の心を育ててください。
“捨”とは、他の人の善であっても、悪であっても「その人のカルマ通りの結果であると」と平等・公平に観る心のことを捨といいます。無知による無関心や愚か者を無視することは、本当の捨ではありません。

“捨”については難しいかもしれません。自分の家族、自分の関係がある人々に、自分が、慈悲喜の心を育て、相手を助けても、何らかの原因で、その人の幸福が壊れることがあります。また、その人の不幸や悩み苦しみがなくならないときもあります。自分の親しい人の人生が成功しているとき、喜の心が生じます。しかし、何らかの原因でその人の成功がなくなることがあります。そのようなときには、「その人は、過去の自分のカルマの結果を得ているのだから、仕方がない」と、その人のカルマを観て、捨の心を育てるとき、悲しくもない、嬉しくもない、自分の心は、安定し、静かになります。

最後は、できれば、自分の心と体の様子を詳しくわかる、ヴィパッサナー瞑想を実践してください。ヴィパッサナー瞑想とは、智慧を得るための瞑想法です。自分の心と体を対象に、意識を注意集中させ、自分の心と体が、瞬間、瞬間、変化していることをありのままに観る実践法です。今現在、世界的にも関心が高まっている瞑想法です。

このように、自分の“心の行為”が、淨らかになるためには、呼吸の瞑想、慈悲の瞑想によって慈悲喜捨の心を育てて、智慧を得るためにヴィパッサナー瞑想を実践してください。瞑想も出来る人は、理想的な在家の仏教徒になります。

自分の信じることも正しく、自分の体の行為、口の行為、心の行為も善くなるように実践して、忍耐するべきことを忍耐して暮らしたら、家族関係、社会の中で人間関係がよくなり、周りの人々と上手に付き合うことができます。
このようにして、5つの限りない徳と恩を忘れないで、カルマを信じて、身《しん》、口《く》、意《い》行為をよく守り、自分のできる功徳を積んで、できれば瞑想をして、自分の心を静かに住むとき、とても幸せです。これが在家仏教徒の理想的な生き方なのです。誰でも生きていれば、ある日には必ず死はあります。生き方が善ければ、死についても何も心配することはありません。
命終わるとき、次の世界に持っていけるのは、自分の積んだ功徳の力と智慧だけです。

それでは、在家仏教徒の理想的な生き方についての説法は以上です。
どうぞ、みなさんが、心身ともに、健やかであり危険がなく心安らかに幸せでありますように、と念じて終わりにいたします。
ご清聴ありがとうございました。

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