テーラワーダ比丘出家に至るまで(3)
3.念願のテーラワーダ比丘出家となる
ニャーナーローカ比丘
マハーアウンミィエ瞑想僧院でニャーヌッタラ長老の師であるケサラ長老に初めて礼拝した時のことがまず思い出されます。80歳になられるケサラ長老はユーモラスな微笑みを浮かべて大きな身体でゆったりと法座に座っておられました。
そのあたりをはらうかのような風格を目の当たりにして、ミャンマー国40万人のサンガ団体の副団長をつとめられた偉大な長老に自分は今お会いしているのだと感動を覚えました。
今回の比丘出家儀式では親教師をつとめて頂き、ミャンマー滞在中は文字通り我々2人の新比丘の慈父として教え戒めを与えていただきました。
僧院内で偶然お会いする時などいつも微笑みを浮かべられ自然体で“温和なおじいさん”とでもいうような暖かい雰囲気を漂わせておられるので、私も新比丘でありながらついつい微笑み返しながら礼拝していたことが思い出されます。実際は、ミャンマーでのテーラワーダ仏教の繁栄のために重要な功績をあげられた大長老であられるのです。
当日の比丘出家儀式ではさぞかし緊張するだろうと思っていたのですが、儀式の進行を司るケサラ長老とニャーヌッタラ長老が実父同然のように思われてならず、あたかも放蕩息子が家に帰還するかのような感情を味わいました。
長老方が我々を取り囲み唱和されるパーリを聞きながら胸に湧き起こるそれはなつかしいとしか云いようのないものでした。我ながら実に不思議に思われます。その何十年かぶり家に帰ったようななつかしい感じは四資具の布施を修道会の人々やミャンマー人の信者さん達から受けながら次第に強い喜びと感謝の気持ちに変わっていきました。
比丘出家儀式のあと私は感極まってしまい、ニャーヌッタラ長老のお手を取り感謝の言葉を告げました。ニャーヌッタラ長老は静かに「これがあなたのカルマ。」とだけ答えられました。その時の長老の実に深い尊い表情が今でもはっきりと心に思い浮かんできます。
あとで比丘出家の証明書を読んで知ったことですが比丘出家儀式が行われたシーマの名前はサッジャナ・スカ・カーリー・シーマといい“聖者達が安楽に住する戒壇”という意味だそうです。ケサラ長老、ニャーヌッタラ長老を始めとしてカンマワーチャー(出家儀式の際に長老方が唱えられるパーリ)を唱えられた長老方の姿と思い合せられて実に感慨深いものがあります。
こうしてミャンマーは私にとって大切な第2の故郷になりました。
比丘出家儀式後は上座仏教修道会13名とともに仏教遺跡や僧院を訪ねる10日間の巡拝の旅をいたしました。2500年前から連綿とお釈迦様の教えを守り伝えてきたサンガの歴史を目の当たりにするかのような意義深いものでした。
日本では大量の諸仏諸菩薩に取り囲まれて殆ど見えなくなってしまっているお釈迦様がミャンマーの僧院やパゴダでははっきりと拝することができます。そしてお釈迦様の存在がとても身近に感じさせられます。まるでつい最近までご在世下さったかのように。
この10日間の旅行で特に思い出されるのはニャーヌッタラ長老がかつて教学とヴィパッサナー瞑想を学ばれたマハーガンダ僧院を訪れた時の事です。そこではマハーガンダ僧院の創立者でありニャーヌッタラ長老の教学の先生でもあるジャナカービワンサ大長老の生前の姿を偲ぶ機会に恵まれました。美しい湖の岸辺に面したジャナカービワンサ大長老のかつての住居の静かな佇まいに私は鮮烈な印象を受けました。
ダンマが鉢の水を別の鉢に移すようにウ・ジャナカービワンサ大長老からニャーヌッタラ長老に伝えられ、そして現在、ニャーヌッタラ長老の瞑想指導や説法を通じて私達、日本人に伝わっています。マスメディアが極端に発達した現代でもこのようにお釈迦様の教えが純粋に心から心へと伝わっていくというのは2500年前も今現在も同じであると感じます。
そして、どの世界においてもお釈迦様の教えを理解し三宝に帰依する人が必ず現れるという事。これは不思議な事のように見えてお釈迦様が洞察された真理の普遍性からすると当然のことと思うべきなのでしょう。
今回、このような巡拝の旅を共にすることできた上座仏教修道会の方々には深い仏縁を感じました。私にとって大切な法友としてこれからも感謝の心で慈悲をおくらせていただきます。
旅行から帰ってケサラ長老からニャーヌッタラ長老の通訳を通して大念住経に直接基づいたヴィパッサナー瞑想の指導を受けた事は今回のミャンマー滞在で最も大きな出来事でした。大念住経を理解する上で多大なインスピレーションを瞑想実践を通じて得ることができました。
その時の面接指導や毎日の教え戒めの録音を聴きながら、今回のミャンマー滞在は2ヶ月という短期間であったとはいえ私の人生にとって特別な機会であったという感をますます深くしています。
思い返せば、私がテーラワーダに転向して今日に至るまで、ちょうど竹の節のように要所要所で善友が現れて私を導いてくれました。その1人1人が年に関係なく私にとって恩師です。結果として私のような欲も怒りも人一倍強い人間がお釈迦様の教えに辿り着き、ニャーヌッタラ長老という最高の善友の僧院で比丘となることができました。
アーナンダ長老がお釈迦様に「善友を得ることは清浄道の半分だと思います。」と言われるところを読んで、なぜ半分なのか。半分でも言いすぎでせいぜい始まりくらいではないのかと思ったものですが、それに対するお釈迦様の返答が「いや、そうではない。アーナンダよ。私のような善友を得ることは清浄道の全体なのだ。」と。
実に意外な感にうたれたことを覚えていますが、今日までこの道を歩んできて思います。確かに全体なのだと。
お世話になった瞑想指導者の方達。共に瞑想修行した多くの人々。なにくれと心配してくれる家族。誰1人欠けても今の私はないだろうと思わされます。その恩に心から感謝しております。