瞑想の体験
私が上座仏教修道会の門を叩いた時は、自分がこの世に存在していること自体がつらくて、まさにどん底の状態でした。あちこちの坐禅会に参加しては、とってつけたような法話に違和感を感じ、仏教書を乱読しては書物に書いてある言葉から解決策をみつけだそうともがいていました。
当時読んだ仏教書は150冊を超えますが、琴線に触れた言葉をノートに書き写してみても、読んだ量と忘却の量が等しく、自分の糧となることはありませんでした。
そのような状態の中、すがるような思いでニャーヌッタラ長老の最初のご指導を受けました。それから約2年半が過ぎました。
初学者の私の体験が、これから瞑想をはじめる方、瞑想が停滞している方のご参考になればと思い、以下時系列に記します。
瞑想開始~半年経過
今思い返すと軽度のうつ状態にあったのではないかと思います。何もする気がおきず、精神状態が不安定で、それまでの趣味にもまったく興味がもてず、ただ瞑想に逃避しようとしていました。瞑想をしている時間だけはこころが落ち着きましたので、休日も一時間おきに瞑想をしていました。何の変化も感じられませんでしたが、ただ苦しみから逃れるために瞑想をしていました。
半年~一年経過
毎月一回浄心庵に通い、朝の礼拝行に参加して三帰依と共にある戒の受持・慈悲の瞑想など、そしてニャーヌッタラ長老の丁寧なご指導を受けながら、三十分の瞑想、続いて自由瞑想を行っていました。
日によっては瞑想中になんともいえない気持ちの良さを感じることもありました。集中するつぼがうまくはまってアルファ波がでたためですが、「こころ」には何の変化も感じられません。
「預流果の智慧を得たいのになぜ変われないのか」と毎回ニャーヌッタラ長老にお聞きしていました。今思えばなんと浅学なことだったか。ニャーヌッタラ長老からは「必ず変化は表われます」とのお言葉をいただいていましたが、ニャーヌッタラ長老のお言葉を理解できるレベルに達していなかった私は憮然とした面持ちでそのお言葉をお聞きしていました。
一年~二年経過
何としても預流果の智慧を得たい」という欲から瞑想をしていた時期です。自我の欲が原動力となっていたとはいえ、少しずつ変化は現れてきました。私の場合、物欲がめっきり減りました。趣味のものに対しても、「今の自分には必要ないから要らない」と冷静に判断するようになりました。
しかし自分でわかる変化はそれくらいで、相変わらず自分のまわりでおこる出来事に振り回され、そのたびに自分の感情に振れが生じ、感情をコントロールする、まして事象と情動を別次元でとらえるなど、夢のまた夢でした。
自分はこのまま何も変わらず現世を終えるのか、と悲観的にもなりました。しかし、決して瞑想をやめようとは思いませんでした。
三宝(ブッダ・ダンマ・サンガ)を信じる(ニャーヌッタラ長老のお言葉と竹田先生のアドバイスに従う)ことに疑念はもたなかったからです。「変化の度合いは人それぞれのカルマによる」とのお言葉を信じていました。何よりこの頃は瞑想に対する気負いがとれ、時間があるから瞑想しよう、という感覚に変わっていました。
二年経過~現在
瞑想が自分の中で、無意識にする日常の作業になってきました。歯のケアのために歯を磨き、体のケアのために入浴するのと同じ感覚で、心のケアのために毎朝瞑想をしています。
特にこの二、三ヶ月、自分でもはっとする変化を感じます。外を何気なく歩いている時、「あ、今歩いているのは「私」ではないんだ」と思う瞬間が何度かありました。ニャーヌッタラ長老にお聞きすると、大乗仏教でいう「小悟」だそうです。これを繰り返すうちに、必ず預流果の智慧が得られる、とご教示いただきました。
また、自分の周りでおこる出来事が大なり小なり、あとから思えばそれがベストだ、といえるタイミングでおこる、そんな体験をする回数が増えてきました。竹田先生にお聞きすると、三宝の教えと自分のエネルギーが感応したからだ、とのお言葉をいただきました。
今でも、瞑想に集中できるときもあれば、こころが乱れて集中できないときもあります。ただ、集中できない時でもそのことを気にかけることはなくなりました。瞑想が終われば次の「今」に移り、「過去」の瞑想にこだわらなくなったからです。
小学校入学以来、キリスト教的二元論の考え方にどっぷり慣らされてきた私のような凡夫にとって、カルマ・輪廻など、深遠な仏教思想を知識だけで理解することは至難です。「我思う、ゆえに我あり」の「我」はどこにもいないのだ、とは二元論の前提条件を否定することであり、それを知識としてではなく、全人的に理解するにはヴィパッサナー瞑想で現体験するしかないと思います。
ヴィパッサナー瞑想は生涯続ける価値のある生活習慣の一つです。月単位でみても変化はわかりませんが、年単位でみれば「こころ」が浄化されていることに、あらためて気がつきます。
「生きとし生けるものが幸せでありますように」と今生最後の瞑想を終えた瞬間、静かに来世へ向かえるように、少しでも善のカルマを積んでいきたいと思っています。
合掌
K.T.